一度食らいついたら、離れんぞ!土佐藩士にして土佐藩参政:吉田東洋の義理の甥:
後藤象二郎。
後の
板垣退助とは幼少の頃からの幼馴染であり
吉田東洋が開いた鶴田塾では、後の三菱財閥創始者となる
岩崎弥太郎と共に学問を修めた。
東洋に推挙される形で土佐藩幡多郡奉行に抜擢され、大坂藩邸の普請奉行に昇進するが
東洋が土佐勤皇党に暗殺されると失脚。
政治的不利に陥ったことから一旦勉学の為に江戸に出て航海術を修めた後に
土佐藩指導者である山内容堂に見込まれて藩政に復帰。公武合体を唱えていた象二郎は
禁門の変後、山内容堂が土佐勤皇党弾圧に動いたことに便乗して
(叔父の仇&失脚の恨みもある為)
尊皇攘夷派の急先鋒である土佐勤皇党を弾圧。
土佐勤皇党の盟主である武市半平太を断罪した。
その後、
坂本龍馬との交流から政治思想を公武合体派から攘夷派へ転換。
坂本龍馬の船中八策を元に、
幕府へ大政奉還建白書を提出し
これが受理されたことから幕府は大政奉還に踏み切った。
上記から坂本龍馬への恩返しとして脱藩罪の取り消しを山内容堂に認めさせたという。
明治維新後は政府要職のポストを得るが、
政争(征韓論支持)に破れて辞職。以降は
板垣退助と共に自由民権運動に参加して政府批判へと動くが
それと同時に内閣大臣へ就任するなどの行動は党や派閥を越えた政治家と評される反面
前述の幕末時の思想転換と同様に「お前はいったい誰の味方なのか?」と批判を受けた。
長兄の英傑大戦:
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