滝山城築城500年ページより
北条氏のなかで滝山城に最も関係が深い人物は北条氏照です。氏照は3代氏康の三男で、4代氏政の弟にあたります。
天文15年(1546)、氏康が河越合戦で関東管領上杉憲政を破り、武蔵一帯の支配を進めると、武蔵国の守護代であった大石氏は、北条氏のもとへ下りました。北条氏の支配地政策の一つとして、氏康は氏照を大石氏のもとに養子へ送ると、大石氏の支配地を氏照に継がせました。こうして、滝山城は大石氏から氏照の居城へと代わっていったのです。
氏照は、合戦時に自ら先陣を務めるなど、数々の武勲を挙げたといわれており、勇猛果敢な歴戦の勇士であったといわれています。また、外交手腕も高かったとされ、戦国大名との交渉に使われたことを示す書状は全国各地に残されています。その他、織田信長や徳川家康とも親交があり、情報の収集にも長けていたようです。
天文23年(1554)に北条、武田、今川による三国同盟(相甲駿同盟)が結ばれました。
しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで織田信長によって今川義元が討たれると、今川氏の勢力は急速に弱体化していきます。すると、永禄11年(1568)武田信玄は同盟を一方的に破棄し、今川領の駿河へと侵攻。さらに翌年、武田方は残る北条方とも袂を分かつように、北条領へ侵攻を進めます。滝山城も北条領の拠点のひとつとして武田勢から攻撃を受け、戦場となりました。この永禄12年(1569)の滝山城での合戦は、武田勢がおよそ2万に対し北条勢はわずか2千程と両軍の戦力差は歴然で、武田勢に二の丸門まで肉迫されましたが、「堅城」との異名を持った滝山城を最後まで打ち崩すことはできず、見事に北条勢が滝山城を守り抜いたといわれます。
その後、武田勢は小田原攻めを敢行しますが、難攻不落の小田原城は落とすことはできず、甲州へと引き上げます。その帰路で、三増峠(現在の神奈川県愛甲郡愛川町)で北条氏照・氏邦勢と合戦になりました。
戦国時代も終わりに近づくにつれ、豊臣秀吉による天下統一の機運が高まりをみせます。秀吉に対抗するため、氏照は天正10年(1582)頃から新たに八王子城の築城を開始し、天正15年(1587)頃までに滝山城から拠点を移していきました。
秀吉の関東制圧の一環で、天正18年(1590)に前田利家・上杉景勝軍に侵攻され八王子城は落城します。この八王子城落城が決め手となり、本拠の小田原城は開城。氏照は、この戦いでは小田原に在城しており、八王子城での戦いに参戦することができませんでしたが、開城後は戦いの責任者として、兄の氏政とともに切腹し、北条氏は滅亡しました。
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