wikipediaページより
山内上杉家によって児玉郡八幡山の独立丘陵に築かれた城ではあるが、鎌倉時代には武士が居住していたと考えられており、城としての形態に整備されたのが室町時代末期(戦国時代初期)とされる(15世紀後半に築かれたと言う事になる)。
『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』などによれば、山内上杉氏の居城として築かれるも、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した[2]。定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる[2]。
築かれた目的は、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられている。つまり、当初は五十子陣の支城としての役割があった。五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。
150年近い歴史をもち、最終的には松平家1万石の城となり、八幡山藩が立藩するものの、江戸時代をむかえる前に廃城となった。
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