都市巡礼 #7
解説:
https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739広島から東海道新幹線に乗ると、都市間の距離の問題を超え、全ての空間が同一線上の都市として認識されていることを痛感する。デジタル空間と現実の都市空間との境界線が失われ続ける現代都市の様相を以前に「芸術的都市」と形容したことがあるが、私たちの無意識が表面的へせり出し続ける状況を無意識の露出=芸術と捉えた建築家アルド・ロッシの言葉をパラフレーズして提示した本概念に対し、現実の都市空間によりコミットすることはそのアンチテーゼとしての可能性を秘めているだろう。都市に向かい、都市空間をフィールドとして調査することの意義はそこにあるのは恐らく言うまでもないのだろうが、しかしながら、僅か数時間で都市をネットワークとして接続するこの空間は、果たしてシステムの外側なのだろうか。車内に必ず設置されたデジタルスクリーンと、道中必ず目に入るスマートフォンの画面は、私にそんな憂慮を誘惑させる。
この都市において、もはやデジタルデトックスは不可能だ。私たちは常に誰かと繋がっているし、誰かと繋がることを要求される。数年前に目にした芸術作品、そこに込められた「新しい孤独」というメッセージが頭の中に浮かぶが、強制同期から自己を切除できない時代において、そんな「孤独」は大いに有用だ。とはいえ、問題はきっと「孤独」の程度である。私たちは過剰に繋がり過ぎてもいけないし、誰とも繋がらないこともできないのだから。私がしきりに参照した「海辺」の概念は、そうした中途半端な環境を肯定するための前線基地たる役目を内包したものである。
集合性の象徴として参照され続けた海は、主体の一切の固有性を承認しない。それゆえ、それらはただひたすらに「没固有」である。しかしながら、あらゆる固有性が否定され、ただシステマチックに駆動する都市それ自体も、ある種「没固有」だ。圧死された主体性がこの都市の地下茎として存在しているだけの様相は、高くそびえたつ都市の光景とは裏腹に私たちの没固有性を提示する。それは互いに固有性を承認しない点において、海とは真逆のように見えて同質だ。これを「鉄の砂漠」と称することはできるだろうか。
主体性の消失としての海への回帰と、承認されない主体性を地下茎に追いやる砂漠。両者がいずれも芸術的都市の台頭により出現するなら、この両者でもない都市空間を思考せねばならない。誰かを「 」で囲い、私たちの眼前に出現させることは、地下茎で蹲る物を救出する方策なのだ。
ukiyojingu作品集『都市巡礼』2025.12.30 release
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